占星術師を志したきっかけ


何が起きても、人の周囲には、
常に、太陽の運気が満ち、そして、溢れています

いままで、太陽が、ただの一日も、ただのひとときも、
休んだことがないことを知れば、
太陽には、何かとてつもない大きな意味があることを
わたしたちに、感じさせてくれます

幸運は、かならず、周期にともない訪れ
自分がかつて人に対して、環境に対して、行ってきたこと、
使った言葉、投げかけた思い、そのすべてが、かえってきて
宇宙の原因結果の法則で、何かが満ちた時に、それは訪れます

その「幸運の水」をいただく順番を、
こだわりなく、待つことができ、
人生のつらい経験でさえ、時に耐えることもでき、

ひたすら自分の使命を感じて、成長を続けた者にだけ、
注ぎ口、流れ出る場所のありかは、知らされるもの

そしてその時に、肝心なのは、やっとたどりついたその泉を前にして、
注がれる「杯」を、
その豊かな水を受けとる、
十分な大きさの「器」を持っているかどうか

何より、自分だけでなく、大切な方々のために、
その大切な水を運べる力・器を持っているかどうか
それが本当の「運」

授かりものである幸運は、
神々が、人間に運んでいる「運」かもしれないこと

もし、人が自ら他者のために「運ぶ」ちからに
共鳴した神々が、注いでくれるのだとしたら

わたしたちは、注がれるにふさわしい大きな「器」をもつことが、
自らと他人の幸せにつながるのかもしれない



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占星術師になった経緯について  


企業に勤務しながらもクラシックが好きで作曲をしたり、
その後、予防代替医療に従事するかたわら、
好きな葡萄や、ラズベリーを求め、東欧の田園を回り、
農家とともに働き、自然とそこで育つ植物の発するエネルギーの強さを不思議に思いながら、
なぜ私は日本で生まれたのに、異国での生活に興味をもつのか、いつも考えていました。

そしてふと見上げると、その畑の上で、その彫像の上で、
様々な星座や、金星がかかり、目が合っているような、
いえ、あちらがじっと見ているような気すらしたものです。

 車で、鉄道で、なぜかその町で、畑の前で、気を惹かれ、降りたくなったり、または降りる羽目になったり。
予定変更を余儀なくされる、引き留められるような現地での出会い、出来事があり、日本へ戻っても、
ああ、もう一度そこへいかねばならないと思ったものです。
現地のひとに連れられて、ある土地に案内されて踏み入れた時、

「あれ、ここに来たことがあるかも!」

皆さんも思い当たることがおありだと思います。

これらの多彩な人生の出来事を日付ごとに、印象をメモしてストックする習慣が私にはありました。それはのちに星読みに役に立ったのです。


 その時に起こった心に残るできごとが、星のエネルギーとしてあらわされていたことに、驚愕しました。
すなわち善きことも、そうでないことも、星の運行のまま、生じており、

私はその場で一喜一憂したなかで、、
エネルギーをもっと善きことに注ぎ、
そうでないものは回避できたのではないか!と思うに至ったのです。

特に、海外、当時東欧在住時は、
セルビア在住ハンガリー人ワイン醸造家・育種家の下で、ハンガリーのブドウの品種、
パンノニア平原の、特にスレム地方(Srem District:現セルビア)のブドウの品種について、熱に浮かされたように1000年近い愛された歴史、ワインの独特の風味、美しさに惹かれ取材をしていました。
その膨大な写真やメモで、葡萄と現地の人びとの生活ににいての物語・紀行文を書くこと、希少品種ワインの輸入販売、そして現地の大学の先生と結婚を考え、移住を決意していました。
しかし、現地と日本で、ある時をさかいに、歯車が少しずつ乱れてゆき、
あらゆる面で同時に問題が噴き出して、最終的に計画が叶わぬことがわかったときに、
ふと、ブドウの葉や、日差しを避ける小屋、いつも通っていたSubotica市庁舎の広場からお店に続く道の並木などが、一斉に、自分の視界から霞んで、ぼんやりしていくような感覚を覚えました。

それまで、あれほど生き生きと、こちらに注がていたあらゆる事物が、とつぜん
その土地が、19世紀から残っている美しい建物から、広場のさざめきから聞こえてくるのは、何か、私がまもなく、ここを去り、日本に帰ることを知っているかのような響き、
惜別の思いを伝えられている、ような感じがしました。
本当に、不思議な感覚でした。
「あ、私が初めてここに来た時から、ここでひととき役目を果たせば、日本に帰ることはすでに決定していたんだな」と

予測できない波乱、しかも何も結果が生まれず、
気持ちだけが大地震に振り回されるかのように、
右往左往し、そして努力が四散霧消するような現実を、
そもそも経験すべきではなかったのでは?
ではなぜ経験したのか?と
どうしても受けいれることができぬまま、
2014年の最後、クロアチアを通り、クリスマスをスロヴェニアの山村で静かに過ごし、
年始に0℃以下のウイーンで吹雪に晒されているベートヴェン像を見て
帰国しました。

「ワクワクドキドキに波乱の入り混じる人生」と
それと「心が豊かになる人生」は
何か両者は本質的にちがうのではないかと深く考え始めました。

それは、暴風雨で崩れかかった家のような、自分のマインドをもういちど立て直す、
まさに生きるためにも、そう考えざるを得なかった、
といった方が正しいでしょう、

波乱万丈で、様々な経験を積めば成長できるというのは、
自分の肉体、感情体、マインド体のどこかがバランスが悪く、
不安定な量子場に入り込み、エゴ(欲望)の分離した心にとらわれ、

周囲の大切な家族、友人、からエネルギーをいただいていることへの
感謝を忘れていたこと、に気づきました。

自分の我欲は、他者のそれと結びつき、時に順風、ときに逆風で
良い時もあれば、わるいときもある、でも素晴らしい時があるのだから、
今後も大丈夫だろう、という、他者・環境依存のどこか不安定な状態と、

いそがしくても、どこか穏やかに凪いだ気持ち、和みのきもちを抱き、
太陽の光の恵みを自然にうれしいと感じながら、
自己顕示ではなく、真の意味で他者の役に立つ生き方をすることで
得られる何か大きなものとの一体性、充足感で、周囲に感謝があふれる感覚は、

これらは、まったく別次元のことなのではないかと、気づきました。

「本来の自分の使命から外れると、お知らせとして、
ときに突然、ときに順番に、どこか周期的に、
人は心身、または経済生活上に何らかの痛みを伴うことがある」


占星術で、できごとが起きる「時」を「善・不善」を予測・察知出来たら、
それを回避して、どれだけ、たいせつな「時間」を「命」を守り、
育てることができるのではないだろうか?

・人の「使命」とは、何なのか、それを占星術で伺い知るにはどうしたら良いのか?

占星術で、真の意味で、人様の御役にたてることはできないものか?

これが、占星術の扉を、さらに強く、深く叩いた大きなきっかけです。

そこから、師と再会して、深く学んでいるうちに、
使命から外れた事物への、欲望と執着によってできた心身の傷は、
いつのまにか癒えていました。

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