何が起きても、人の周囲には、
常に、太陽の運気が満ち、そして、溢れています
いままで、太陽が、ただの一日も、ただのひとときも、
休んだことがないことを知れば、
太陽には、何かとてつもない大きな意味があることを
わたしたちに、感じさせてくれます
幸運は、かならず、周期にともない訪れ
自分がかつて人に対して、環境に対して、行ってきたこと、
使った言葉、投げかけた思い、そのすべてが、かえってきて
宇宙の原因結果の法則で、何かが満ちた時に、それは訪れます
その「幸運の水」をいただく順番を、
こだわりなく、待つことができ、
人生のつらい経験でさえ、時に耐えることもでき、
ひたすら自分の使命を感じて、成長を続けた者にだけ、
注ぎ口、流れ出る場所のありかは、知らされるもの
そしてその時に、肝心なのは、やっとたどりついたその泉を前にして、
注がれる「杯」を、その豊かな水を受けとる、
注がれる「杯」を、その豊かな水を受けとる、
十分な大きさの「器」を持っているかどうか
何より、自分だけでなく、大切な方々のために、
その大切な水を運べる力・器を持っているかどうか
それが本当の「運」
授かりものである幸運は、
神々が、人間に運んでいる「運」かもしれないこと
もし、人が自ら他者のために「運ぶ」ちからに
共鳴した神々が、注いでくれるのだとしたら
わたしたちは、注がれるにふさわしい大きな「器」をもつことが、
自らと他人の幸せにつながるのかもしれない
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
占星術師になった経緯について
企業に勤務しながらもクラシックが好きで作曲をしたり、
その後、予防代替医療に従事するかたわら、
その後、予防代替医療に従事するかたわら、
好きな葡萄や、ラズベリーを求め、東欧の田園を回り、
農家とともに働き、自然とそこで育つ植物の発するエネルギーの強さを不思議に思いながら、
なぜ私は日本で生まれたのに、異国での生活に興味をもつのか、いつも考えていました。
そしてふと見上げると、その畑の上で、その彫像の上で、
様々な星座や、金星がかかり、目が合っているような、
いえ、あちらがじっと見ているような気すらしたものです。
車で、鉄道で、なぜかその町で、畑の前で、気を惹かれ、降りたくなったり、または降りる羽目になったり。予定変更を余儀なくされる、引き留められるような現地での出会い、出来事があり、日本へ戻っても、
ああ、もう一度そこへいかねばならないと思ったものです。
現地のひとに連れられて、ある土地に案内されて踏み入れた時、
「あれ、ここに来たことがあるかも!」
皆さんも思い当たることがおありだと思います。
これらの多彩な人生の出来事を日付ごとに、印象をメモしてストックする習慣が私にはありました。それはのちに星読みに役に立ったのです。
その時に起こった心に残るできごとが、星のエネルギーとしてあらわされていたことに、驚愕しました。すなわち善きことも、そうでないことも、星の運行のまま、生じており、
私はその場で一喜一憂したなかで、エネルギーをもっと善きことに注ぎ、
そうでないものは回避できたのではないか!と思うに至ったのです。
特に、海外、当時東欧在住時は、ハンガリー人ワイン醸造家・育種家の下で、ハンガリーのブドウを大きく分けて、パンノニア平原のものと、スレム地方srem districtのものの2つの品種の違いについて、熱に浮かされたように1000年近い愛された歴史を教えて頂き、ワインの独特の風味、美しさに惹かれ取材をしていました。
農家とともに働き、自然とそこで育つ植物の発するエネルギーの強さを不思議に思いながら、
なぜ私は日本で生まれたのに、異国での生活に興味をもつのか、いつも考えていました。
そしてふと見上げると、その畑の上で、その彫像の上で、
様々な星座や、金星がかかり、目が合っているような、
いえ、あちらがじっと見ているような気すらしたものです。
車で、鉄道で、なぜかその町で、畑の前で、気を惹かれ、降りたくなったり、または降りる羽目になったり。予定変更を余儀なくされる、引き留められるような現地での出会い、出来事があり、日本へ戻っても、
ああ、もう一度そこへいかねばならないと思ったものです。
現地のひとに連れられて、ある土地に案内されて踏み入れた時、
「あれ、ここに来たことがあるかも!」
皆さんも思い当たることがおありだと思います。
これらの多彩な人生の出来事を日付ごとに、印象をメモしてストックする習慣が私にはありました。それはのちに星読みに役に立ったのです。
その時に起こった心に残るできごとが、星のエネルギーとしてあらわされていたことに、驚愕しました。すなわち善きことも、そうでないことも、星の運行のまま、生じており、
私はその場で一喜一憂したなかで、エネルギーをもっと善きことに注ぎ、
そうでないものは回避できたのではないか!と思うに至ったのです。
特に、海外、当時東欧在住時は、ハンガリー人ワイン醸造家・育種家の下で、ハンガリーのブドウを大きく分けて、パンノニア平原のものと、スレム地方srem districtのものの2つの品種の違いについて、熱に浮かされたように1000年近い愛された歴史を教えて頂き、ワインの独特の風味、美しさに惹かれ取材をしていました。
1880年代は米国から欧州へ持ち込まれた害虫フィロキセラは、伝統的なワイン用ヴィティス・ヴィニフェラ種の根を食い荒らし、欧州原種は壊滅に近い状態になりましたが、パンノニア平原の品種だけは奇跡的に残り、米国の台木接ぎ木を一切しない100%自根を先祖代々受け継ぎ、彼はそれ守りたいと述べている栽培醸造家でした。その虫は、かつての海が干上がってきた砂地の土壌では呼吸や生活ができないので全く近寄れない。
メジャーな品種を作りながらも、自分が本当に植えたい品種、害虫耐性、季候耐性、収穫量、現代人の嗜好からそれないようにしながらも、原種を追求するのは心を打たれるものでした。
かつて世界で自生し咲き誇ったヤマユリやカノコユリが氷河期の長かった欧州では根が滅んだが太平洋で南北に長い日本はそれらの地球の古い原種のユリは南に逃げおおせることができた、それゆえ明治開国期に欧州の植物学者が日本のユリに感嘆して聖母のユリと称してとして沢山の球根が欧州に横浜から輸出されていた事実ともつながる、それは植物の生命の奇跡を思わせるものでした。
今思い返せば、植物や音楽、建築、古き善き伝統を護るべきなのは、それが普遍的な美しさ、私たちの心を豊かにしてくれる神性を持つからであり、それは私達の内なる神性である感謝、懺悔、償い、という人間が忘れてはならない、何度生まれ変わっても、学び育て続けなければならない、この3つのことを象徴してくれるから、と私は思うのです。
私は師の下での2015年から5年間を経てようやくこれらを信念としてしっかりと根を張ることができました。
現代の技術・経済的な効率化による利己的な欲望によって、歴史の霧の中に追いやられるあらゆる人間の善き行い、軌跡、作品、そして自然の創造物が同じ力で崩壊の危機に瀕しています。
わたしたちは、内も外も、本来の徳性、真の美しさが失われていっているのです。
それらの学びはのちのことで当時は、ともかくその膨大な写真やメモで、葡萄と現地の人びとの生活にについての物語を書くこと、希少品種ワインの輸入販売の2つを考えていました。
一方で、葡萄とは全く関係のない現地で建築学を教える大学の先生である女性と親しくなり、その方に惹かれました。建築学者であり当地の美しいしかしほころびもある建築遺産の修復保護、市民への啓蒙活動と、行政への働きかけに懸命に取り組んでおり、その熱さが全身から溢れていました。
私は葡萄だけでなく当地の文化全般を、歴史に埋没していくにはあまりにも美しく稀有な存在として文章や写真として残したいという思いが元来あり、
彼女の中にその燃焼の体現、美しい結晶を見たのでしょう。
歴史文化を守る強い愛情が、私達2人の縁を繋いでくれたようでした。
一般目線でまた日本人として私なりに執筆紹介できればなという思いで、
彼女の専門知識にそこまでついていけませんでしたが、その素晴らしさはさらに滞在してでも現地で取材して建築についても葡萄の過去と現在の話とともに書き上げたいと思わせるほどのものでした。
しかし現地と日本で、すれ違い、観測の甘さ、仕事で私の企画には時間が避けない事で、心の通い合いが少しずつ崩れてゆきました。
これが旅先の余興で片手間で終わらせれば波風立たずに良かったのかもしれませんが
彼女は自分の専門に対して容赦なく献身的であり、私もまた自分の活動に全力過ぎました。
当初受け入れた彼女も、途中でついていけないつらさを私は受け入れられず
そのまま旅先の友人の一人という形のままでよかったのでしょうが
共鳴だけでなく何か成果を残したいという思いが強く
その前に相手の人生への理解が足りませんでした。
あらゆる面で同時に問題が噴き出して、最終的に叶わぬことがわかったときに、
ふと、ブドウの葉や、街路のプラタナス(鈴懸)の並木、日差しを避ける小屋、いつも通っていた市庁舎の広場を中心に四方にのびていく道にならショーウィンドウ、それらが一斉に、自分の視界から霞んで、ぼんやりしていくような感覚を覚えました。
窓枠ひとつとっても数寄なデザインのガラスに映る街路樹の緑も、
彼女が連れ回して紹介してくれた建物も、遠くから毅然と立つカトリック教会の双子の尖塔も、そういう私の喜びと途切れさせない幾重にも紡がれた無数の糸、それがぷつっと切れていきました。それを通じた情感こそが私が明日をあゆむエネルギーであったのに。
その日を境に、それまで、あれほど生き生きと、わたしの眼やこころに注がれていたあらゆる事物が、その土地から、19世紀から残っている美しい建物から、広場のさざめきから聞こえてくるものが、何か、私がまもなく、ここを去り、日本に帰ることを知っているかのような響き、惜別の思いを伝えられている、夏とはまったく真逆のようでした。
元を辿れば、ポーランドのクラクフから桜の咲くトカイのMad村、そしてハンガリーから乗車してるのが私一人という最終列車で夕方着いた古びた薄暗い駅を降りたときから、春夏秋冬と合計で4度、半年間訪れることになる私の2014年の本当の旅が始まりました。
まだ芽も出てない林檎農園の枯れ木が、その広大さにのびのびと春の陽気を浴びようと枝を、澄んだ青空に投げかけ、ああここは旅行者が多く訪れる西欧ではない、日本人が誰も、いえアジアの人も欧州人もいない、私だけ何か特別な陽光を浴びているような高揚感が湧き上がっていました。
もちろん、地域の歴史は事前に勉強していきました、
縁もゆかりもないのになんとなく関心をもった程度なのに。
その歴史深い場所に、自分が降り立っている喜びは自分でもなぜかよくわからないものでした。心が、いえ魂が喜んでいる!そんな土地の空気を胸一杯吸いながら田園を歩き回ったところから、その日の春の宵に訪問したワイン店がすべての始まりでした。
9月の半ばには街から離れた農場で日焼けしながら葡萄の収穫を手伝い、雨の中でもかっぱを着て醸造を一緒に行いながら、醸造者さん、とそこのハンガリー人の従業員さんたちとの語らい、インタビューが尽きる事ない歴史深い知識ばかりでワクワクする毎日でしたが、それが一服したとき、なぜが街にふらっと気晴らしに出た時、なぜか彼女とばったり再会したのでした。
初めての出会いを思い返せば、それもこのワイン店でした。
私が東欧原種の葡萄が、付近の国で共通に栽培され、名称だけが違うことに強く惹かれました。
聖書の言葉通り、「私は真の葡萄の木、あなたは私の枝である」イエスの内なるものと人々のこころを一体としてつなぎとめる平和の象徴として争乱のバルカン諸民族の宥和の唯一の共有する生活の糧、財産、日々の楽しみであります。
聖書を良く識る彼の作るワインがサラエボでのベートヴェンの第九のコンサート後の祝杯に相応しいと思い、赤と白を100本載せたタクシーで、100年に一度の大雨と水害で多くの被災したボスニアの街を抜けて、細長いドリナ河を静かにしかし速い流れに夕陽の光がさらわれていくの窓越しに眺めながら、見た事のないバルカンの街並みがさらに宗教色の強くなり目的地サラエボで無事届けました。
そして歴史ある橋から見下したミリャツカ河は、ゆったりと流れておりました。
その多くの光の粒は反射して両側の山の中腹にある戦争の名残の真っ白い無数の墓標への永遠の慈悲を投げかけているようでした。
旅は、コソボ紛争の孤児院、水害の被災民の為の陸軍キャンプを経て、飛び込みのワイナリー訪問で後継者の少年の国の貧困からの未来への戸惑いと深みのある赤ワインの対比、息を飲むようなペリシャッツ半島の向かいのネウムのオリーブの岸辺で食べた赤い宝石のようなラズベリー、そしてアルバニアのラヴェンダーの揺れるシュコードラ湖ほとりの謎の宮殿、マケドニアの雲の上の光が輪を描いて水面に落ちていたオヒリド湖、そこのホテルオーナーの葡萄園の聞いたことのない品種が樹勢を思い思いに伸ばす姿、たくさんの揺るがない記憶が旅を趣深いものにしてくれました。
そうやってバルカン半島を1周したあとその街に戻ったときが最初でした。
7月の半ばの夏日、彼女が店に現れたのです。私はバルカンの隅々までこの足で歩いてきた自信と親切にしてくれた方々のお陰で気力溢れ、眩しい夏真っ盛りのバルカン中の陽ざしをまとっているように感じていました。
かたや彼女は講義や試験などの長い勤めが終わってこれから夏休みで疲れた様子でしたが、自宅に招いてくれ、自分の長年の研究の成果物、美しく繊細な花や果物の木のある庭、手料理を頂き、私はあらゆる国の葡萄と農園、旅路の思い出を語る事もなく、彼女の人生、知識は、彼女の容姿にすべてがあらわれており、その歴史ある街の生身のひとりの人間の生活は、バルカンの一期一会で通りすぎた存在とまた違う暖かさを感じました。でもこの女性が、この旅の核心であることなどそのときは思いもしませんでした。
そしておもいがけない再会、秋に収穫が終わり、私が日が傾くまでの数週間の労働で疲れ果てて休息するかのようにワイン店を夕暮れに訪問したとき、今度は彼女の方が、夏と見違える気力と気品、自信のみなぎる別人のようで堂々とした美しさを放った女性に変わっていました。
いえ、その彼女の訪問には数刻まえからすでに気配、その序奏があったのをよく覚えています。私は、店の前の枯れ葉をほうきで履きながら、軒をつらねる旧オーストリア=ハンガリー帝国時代からある建物とそれにかぶさる木々の葉、木漏れ日、歩く人を初めてゆっくり眺め、斜めに指す黄色からオレンジに長く伸びる陽光が、店の荘重な入口から奥のデスクの友人を照らす様子が、まるで何世紀も前の秋の夕暮れの店のたたずまいを映し出してるかのようで何と美しい!ほうきを置いて店に入り、時を止めて、扉の外を静かに眺めていました。
その美しい夕日を背に彼女はおごそかに舞台に上がってきました。
そう、彼女は意味もなく突如として現れたのではなく、その当地の歴史の中から、私の過去世のあらゆる縁を辿って、過去の美しい思い出を忠実に再現するかのように、または何か約束事、私が伝え聴くべきメッセージを大切にたずさえているかのように、感じました。
店にはセルビア、ハンガリー、クロアチア出身などの多くの老若男女、そしてバルカン中で私は幾人とも接したのに、彼女は何か特別なものがありました。
秋にここに来た時から私は彼女のことを気になっていましたが、収穫と取材の忙しさで街には来れませんでした。
あっと声を挙げ、彼女はここでの物語の核心である登場人物として配役され、決定的な台詞で観客をとらえてしまう、私の東欧に来る前から思い描いていた美しい舞台の最初で最後の貴重なメッセージを持つ存在が、今私の目の前にいるのだと、私は完全に捉えられてしまったのでした。
秋が天を覆い、葡萄はもう収穫を終えたのでした。今度は私の方が吸い込まれるように彼女の話を聞きました。私が帰国するまでの間に、何度も合い、ディナーにも誘い様々な話をしました。彼女は必ずわたしをその街の素敵な存在を建物のデザインの話をそえて私を連れていってくれるのです。何という豊かな知識、彼女自身はあまり行かないような賑やかなバーにも連れて行ってくれました。私は彼女の生徒の一人であるかのようでした。
早朝ぼうっとホテルで彼女との事を考えていると胸がつまり高鳴るので不思議に思うと、同時に携帯にメール着信があり、秋の市場でマルメロという聖書にも出て来る果物をみせたいから家に来なさい、と。その日はまた新しいカフェで語らい、美しいオレンジ色のアールヌーヴォーの教会の前で明るい赤色の上着の彼女の写真を何枚も撮る私をみて彼女は少し困惑した顔をしながらも笑顔で映ってくれるのでした。
帰国した後、仕事の提案し、週になんどもやり取りをして、彼女の創作物語の出版翻訳の仕事を計画し、同意をもらい、冬の再会で話をつめる手はずでした。
人と人には別れが実は近いのにそれを感じず、一時的にでも素晴らしく感じる美しい日々があるものです。
そして冬、予定通り幕が下りてゆく、私が聞く交響曲の結末、コーダが始まりました。
この歴史ある場所とも永遠に別れるさだめ、
聞こえてくるのは「もう貴方はここに来ることはないですよ」
神々が一介の平凡な人間にあえて大事なメッセージを伝えるのだとしたら、このようなきっぱりとした冷徹な感覚を与えないと
人間はいつまでも執着するのを神はご存じなのでしょう。
早朝、彼女の家に向かうのは、借りた大量の本や雑誌をもって、薄もやの霧の中。吐く息が白い。
戸口で彼女の言葉に、自分がぐらぐらゆれるのを感じながら聞いた後、私は嘘偽りのない思いを短く最後に伝えただけでした。
私には信じたくないという感覚だけ、内の何かが崩れているのに。
それは私に大切な支柱なのか、不要な支柱で取り除いていいものなのか
私という存在は基礎を失ってしまわないのか。
その瞬間はもちろん、帰国して翌春、師に出会うまでしばらく分らず真っ暗な世界を生きているのかのようでした。
そのあと今までは立ち寄ったことのない灰色の建物の味気ないカフェで、灰色の空を虚ろに眺めながらペンをとりました。
昨日の冬至は、ホテルの側の教会が夜中に鳴るのを、しかも長く静かな響きで、幾方向からも小雨の中から夜通し聞いていました。彼女はメールでもうあなたとの仕事は私には難しいし、要求が多い。それに応え、私はいかに彼女との翻訳出版は彼女にも日本の人々にも趣深い物語になるのだからと必死に伝えました。それは燃える火にさらに薪をくべるようなもの。
彼女にとっては新しい仕事の追求が全て、私にとって建築は葡萄もクラシック音楽も田園風景も詩とおなじように等しく、もれなく神の采配であり愛をもって享受すべきものであり、受け手に人間の元来の慈悲深さと知性忍耐を育て、ひいては徳を学ぶきっかけになるもの、という信念が当時はぼんやりと、当時の自分の言葉を読みかえすと無意識にもっていたようでした。
なぜならそれら著名な芸術家、建築家、植物栽培家は、神から恵まれた環境と技術を与えられながらも、それを持たぬ名もなき人々と同じく、私達の内なる神性である、人様への感謝、懺悔、償いをこの世で一番大切なものを学び育てることを、
神々は望むからこそ、それらの作品、成果物に転写され、聴き手に、伝わる人には伝わるはずであるからです。
当時、私は東欧でのそれらの人との出来事は、何か普遍的なものとして広く一般の人に専門の壁を排除しわかりやすく伝えたい貴重な宝であり、それを自分は伝える使命なのだと思っていましたが、共同作業で彼女とそばにいられるという思いがあり、
それが彼女には重荷だったのでしょう。
優しく親しみで接してくれた彼女の寛容さも、現実を前に消し飛び、
ホテルに帰って呆然ともう何も考えらえず、葡萄も何もかも投げ捨ててしまいたい、もうこの街から出なければという、予想もしない流れに身を任せるしかなく、でも心のどこかで時間を置くことでの一縷の望みをまだ持っていました。
これも冬至の夜に神々が決めた方針だったのでしょう。
すべての思いを彼女に送信した真夜中、今考えても夜中に教会が鐘を鳴らすわけがないのに、しっかりと耳元に木霊して聞こえてくるのでした。ホテルの窓を開けても小さいですがしっかり聞こえます、ずっと。通りの水たまりに街燈の薄明り、鐘の音としとしと雨音以外は一切聞こえません。古い東方正教の冬至の闇を祓う儀式なのか、それとも私の巨大な錯覚なのか、
神々の為さる事は時として人が今まで経験したことのなひどい畏れ感じさせるものです。
人間には経験させないと、人間は変わることができないから。
私が冬にこの街に「着いたよ」と連絡したのも12月初旬、窓を開け17時を知らせる鐘の音と一緒に電話したものでした。私は自分の声をこの街の音と完全に同調させ、この街の歴史的建築の守護者である彼女に、遠い国の自分は縁ある存在であるとして、少しでも結びつけたかった、鐘に背中を押してもらいたかったのでしょう。
翌朝、彼女が手を広げて待ち合わせ場所で私を迎えいれてくれたことは、この上ない喜びでした。でも初日の私の守護として鐘は、その後の打ち合わせで衝突し、困難であることが明白になった冬至の晩にはまったく別の、まるで過去世の御縁の弔いを告げる響きに変わっていました。
「貴方が初めてここに来た時から、ここでひととき役目を果たせば、日本に帰ることはすでに決定していました」と。その方と別れることで涙は湧いてこぼれるのですが、かたや自分の心はどこか冷静で「次に行くのです」という整然とした醒めた声が聞こえてくるのも、自分自身へのおどろきでした。
人生には予測できない波乱、しかも長い時間をかけて行ってきたのに、
何も結果成果が生まれず、気持ちだけが大地震に振り回されるかのように右往左往し、
そして努力が四散霧消してすっかり無くなってしまう現実を、
人は時に経験するものだと思いますが、
そもそもわたしはなぜそんなことに興味を持ち、飛び込んだのか?
相手のエネルギーが私に向けられたからではなく、
私のエネルギーがそこへ向いていたから同化したのであり、
それは内側の自分こそがすべて問題であるはず、
でもなぜ彼女は私を家に呼んで、自分の専門の話をしたのだろうか、断ればよかったのに
なぜ私は同調したのか、秋に再び会ったのか? 数時間でもすれ違えば
私はワイン店からホテルに戻って会う事もその後の出来事もなかったはず
そもそも経験すべきでない、そもそも彼女に逢うべきですらなかったのでは?
なぜ自分はそれにつき進んでしまったのか?
なぜ私はその葡萄や、そのワイン店に行ったのだろう?
そもそもなぜあの街に自分は行ってしまったのか?
そして興味、関心を抱いてしまったのか?
なぜ彼女に惹きつけられてしまったのか?
あの1年もの間のすべてが無駄だったではないか?
それらの答えがわからず、どうしても受けいれることができぬまま、
2014年の終わり、タクシーの運転手にクロアチアを通り、クリスマスイブの12時まえに
ある国の山村の中心部の宿屋を案内され、そこも同じく双子の尖塔のある教会の聖堂の目の前でした。
クリスマス当日夕方、Janiという同じ年齢の人に出会い、家族との食事に招かれ、
部屋の中心に、イエスをはじめとする聖書の登場人物の小さな模型がおかれているのに
心が和みました。教会の司祭の話も伺いました。
つらいことのすぐ翌日に優しい暖かい、素朴な優しいご夫婦と、あたたかい食事、興味深く見た目の違う私をのぞき込む子供。わたしが求めていたものは何だったのだろう。
他国の人々の心の深くに関わるものに入り込んではいけなかったのかもしれません。
人間の創作物はかならず、その生命の源泉はその人物の背景がよりどころです。
翻訳する本の一節に大戦中の様々な辛い出来事にまつわる話を彼女から聞いていました。
私が物事を深く見るのに誠実さを示しても、当事者には痛みを伴うものだから、安易に関わってはいけないものでした。本の打ち合わせの際、その場所に私が「行きたい」といったら、「好きにしなさい、あなたの自由よ」という返事だったのを素直にYESと受け止めてしまったのでした。
まさか、本当に行くとは思わなかったのでしょう、私が行って静かに祈り、思いを寄せることで、忙しい彼女の日々のイライラを安らかにできると真剣に思い込んでいました。
私はまったくもって過去世の贖罪でもあったのでしょうか、長閑で静かな山村に。
イブの寒々しい空虚さはクリスマスの夜明けから数日、新しい街と人が私を何かで満たしてくれていました。山に囲まれた街は、中腹に、てっぺんに教会だらけで、彼は自分の子供と一緒に、年末の大事に時間を割いて教会をひとつひとつ車で案内してくれました。人は、時に思いを寄せ、他人の平穏を祈る事が大事なのだと、その大事な場所が教会なのだと、彼の身は語っていました。
流れ星をかたどった燈火のモニュメントが教会の壁に飾ってあり、それは自分のことだと思いました。
そして12/31決定的に彼女との縁が完全に切れました。
年始に0℃以下のウイーンで吹雪に晒されているベートヴェン像を見て帰国しました。
振り返ってみて「胸の高鳴りに突き動かされる、波乱の入り混じる人生」とそれと「深い新しい学びがある心が豊かになる人生」は何か両者は本質的にちがうのではないかと深く考え始めました。
人の人生は感情のワクワクだけで進む単純な道ではない事、
それは、暴風雨で崩れかかった家のような、自分のマインドをもういちど立て直す、
まさに生きるためにも、そう考えざるを得なかった、
といった方が正しいでしょう、
波乱万丈で、様々な経験を積めば成長できるというのは、
自分の肉体、感情体、マインド体のどこかがバランスが悪く、
不安定な量子場に入り込み、エゴ(欲望)の分離した心にとらわれ、
周囲の大切な家族、友人、からエネルギーをいただいていることへの
不安定な量子場に入り込み、エゴ(欲望)の分離した心にとらわれ、
周囲の大切な家族、友人、からエネルギーをいただいていることへの
感謝を忘れていたこと、に気づきました。
自分の使命とは何なのか、何のお陰で自分が生きていられるのかを
再び深く考えはじめました。
これは、すべて震災の翌年にはじめてお会いした自分の師に、2年ぶりに再会し、
おしえていただくことで深い気づきがあり、師は、わたしのまなびに忍耐強く
寄り添う事で、私自身が、問題の核心を見つけ出して自律的に解決する努力する事と
その姿勢をきびしく、みつめて頂きました。
ここで私が深く驚いたことは、その私の師は、そのお弟子さんを通じて私に
「冬にその街に行くべきではない」というメッセージを旅立つ1週間前に告げてくれていたのでした。私は目もくれずに、しかし異国の寒空で聞いた神々の声はその方の声をなぞってくれたかのように全く同じ響きがありました。
「戻りなさい」
師にはそういう流れをよみとり、人を導くのを手助けする、驚きべき超力のようなものを持っていました。私は帰国して「あ、本当にそのとうりだった」と気づいたのでした。
自分の本来の使命から逃げ、師が薦める人間本来あるべき自然治癒を生かす療法、食改善と占星術で他者の人生の節目で役に立つ役目、その重荷から自分は美しいものに逃げていたことを悟ったのでした。美しいものを描写することで自分の自己顕示欲を満たされますが、
でもそれは人とは、間接的な関りであり、何か根本の役に立つのだろうか、
異国の文化紹介はおもに介在者であり翻訳者の様なものであり、あくまで異国の様々な専門家が主で作家であり、私は従の編集者。私は黒子に徹しなければなりません。
また作家はその強さと同時に繊細な振る舞いを持つのは近くで接すればすぐに伝わります。
寛容で凛とした美しさの外面をもちながらもとても傷つきやすい心を持つ彼女への配慮のない自分嫌気がさしていました。
そして私が日本で震災後決意したものと離れていました。自分の功名心、社会の利権、相手の権威、優越感、私利と自己主張そういうものにウンザリして日本を離れました。
そういう中途半端な自分の態度、心構えは、異国の専門家の創作物へ真剣に取り組むエネルギーに対して本当に失礼でした。
冷静になれば、私は異国情緒に夢中になるのもどこか現実逃避であり
それは私の内なるエネルギーの発したものであり、そしてその行き先は間違っていたのでした。
私は旅立って滞在してる期間と出来事を、細かく日記に記してたのが、のちに役立ったのは、その節目節目で予兆、予言のように感じられた「神々の言葉」は実は占星出生図にきちんとそのメッセージが記してあったのでした。
現地の溢れる光の夏も黄金の秋も、静謐な冬も堪能したではないか、美しいと感じさせた数々の情景、音も、異国の多くの他人の暖かいもてなしも、それらははじめて訪れる他人の私に対して無償のものでした。差別や嫌なことは皆無に等しいくらいでただただ感謝して受け止め、頂いたエネルギーを自分の国で私は他者に恩返しをすべきだと悟りました。
人として女性としても素晴らしい人物に出会えたことも、すべて次への瑞兆でそのメッセージを感謝で受けとめるべきでした。
守るべき支柱の埃を払い、真の誇りを取り戻したようでした。私の個人的な振り返りに並行し、日本に帰国して初めの1年は身心のリハビリで、師から自然治癒療法や食改善など新しいテクノロジーなどをどんどん吸収して身の回りの人の為に生かすことができるようになっていきました。さらに1年たち、占星術を根本から革新し、道を歩み始めました。すべて師のもとを訪問する人生の岐路に立った方々の星を読むお手伝いでした。その後は、師の最後の困難と、師の思いを引き継ぐ役目で5年が過ぎ、自分の使命、役目を実感することができたのでした。私にはもう波乱の過去への執着は一切なくなっていました。
人は思いを寄せるから、エネルギーを送ってしまうから反応が還ってくるのです。
だからこそなのです。思いの宛先、エネルギーを送る先を間違えてはならないのです。
自分の目標は我欲から出たものであれば、
他者のそれと結びつき、時に順風、ときに逆風で
良い時もあれば、わるいときもある、でも素晴らしい時があるのだから、
そのまま進んでいれば大丈夫だろう、うまくいくだろうという、
他者・環境依存のどこか不安定な状態は、人間の幸せにはつながらない事。
いそがしくても、どこか穏やかに凪いだ気持ち、和みのきもちを抱き、
いそがしくても、どこか穏やかに凪いだ気持ち、和みのきもちを抱き、
太陽の光の恵みを自然にうれしいと感じながら、
自己顕示や欲望ではなく、自分の使命に基いた、
真の意味で他者の役に立つ生き方をすることで
得られる何か大きなものとの一体性、充足感で、周囲に感謝があふれる感覚は、
これらは、まったく別次元のことなのではないかと、気づきました。
「本来の自分の使命から外れると、お知らせとして、
ときに突然、ときに順番に、どこか周期的に、
人は心身、または経済生活上に何らかの痛みを伴うことがある」
・占星術で、できごとが起きる「時」を「善・不善」を予測・察知出来たら、
それを回避して、どれだけ、たいせつな「時間」を「命」を守り、
育てることができるのではないだろうか?
・人の「使命」とは、何なのか、それを占星術で伺い知るにはどうしたら良いのか?
・占星術で、真の意味で、人様の御役にたてることはできないものか?
これが、占星術の扉を、さらに強く、深く叩いた大きなきっかけであり、
それを人様に少しでもお役にたてればと、
それが自らの使命だと確信しました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




